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フィリスのアトリエで揺らぎ、トライナリーに学んだ いまの心情 [アルトネリコ・サージュコンチェルト]

Netflixでナチス戦犯最後の逃亡者たちを観た。

https://www.netflix.com/watch/70242664?trackId=13752289&tctx=0%2C0%2C43434d9eef9c08d385110a7e8ad16b7a4739b4d2%3Abf3df6b2036f58f524f6bfbec98fce047efc35db%2C%2C

大学時代にこのあたりのことをたくさん考えていた記憶が蘇る。

内容とは関係ないが、いまの率直な心境を。


ここ数年オタク趣味を復活させ、その活動に勤しんできた。

しかし、その終止符も近くなってきたのかもしれない。


直接的ではないが、その原因の一つにはフィリスのアトリエをプレイしたことからだ。


自由人として色々なことを「いまを生きる」という信条とともに生きてきている。

しかし、この作品をプレイしたことによって、自由に生きることによって失われる可能性にも気がつかされた。これはまさに頭をガーンと殴られたような気分だった。

フィリスのアトリエは、錬金術士になるべくフィリスが村を出て世界を旅しながら1年後に控えている錬金術士の試験の合格を目指していく物語だ。

アトリエシリーズはもとよりそうだが、この作品は特に自由度がものすごく高く、どのように過ごしていってもよいのだ。


世界を縦横無尽に楽しく駆け回り、試験のことも頭にいれながらやれることをやりつつ、まあなんとかなるだろうと思って365日を過ごした。残り日数が少なくなり、できることの可能性がどんどんなくなり、若干の焦燥感を覚えた。そのまま少なくともやれることはやり試験に臨んだ結果、それは散々なものであり、見事なまでの不合格であった。正直全く歯がたたなかった。

不合格でもエンディングはある。

フィリスは村を出るときに約束した通り、村へと戻り、そこで旅で培ってきた知識を活かしながら生活を営んでいくエンドを迎えた。

しかし、もし合格をしていたのであれば、その後世界を自由に行き来し、錬金術士としての活動していく未来があったのだ。

ゲームであるとはいえ、このことは非常にショックであった。

この数年、それなりに自由に生きてきた。責任をもって。

しかし、その自由にいまを生きてきた結果失った未来もたしかにあったのだ、と痛感させられた。

後悔をしないために「いま」の行動に意味や責任をもたせてきた。

しかしそれでもなお、フィリスのアトリエをプレイし終えたときに、自分が捨ててきた可能性にも愕然としたものだった。もちろんどうなる未来があったのかは知る由もない。


拡張少女系トライナリーをプレイして、より俯瞰視点をもつことができるようになった。
このことも相まって、先のショックが現実感をよりもって増幅されたのだ。

僕らは1回の人生につき、一つの人生しか歩むことができない。そしてその1回の人生とは「いま」しかない。


「本当にこのままでよいのだろうか」


これはアルトネリコでライナーが一旦のエンドを向かえた後に持った問いだった。
その後彼はそれまでに築いてきた世界を否定し、新たな未来を作るに至った。
たった一人の、小さな問いだった。しかし、このライナーの問いがなければ未だミュールは解放されず、アルトネリコ2−3を通した未来は生まれなかったのだ。


問いは未来、少なくとも自分自身の未来を大いに変えうる。私の未来が変わればそこに関わってくる人たちの未来も大いに変わり、環境が変わり、世界が変わりうる。クオリア次元論への理解や、トライナリーをプレイすればそのことはよくわかる。そして、実際の私たち自身の未来においてもそうだと言えるだろう。


いまの心情を書き落としておきたく筆をとった。
これからどうするのか。
まだオタク趣味活動としてやり残していることはある。それはやる。その後への準備だ。


どう生きるか。
改めて直前にせまった未来だけでなく、もう少し先の未来を意識したいまの行動をしていきたい。
トライナリーで学んだことだ。


フィリスで衝撃を受け、トライナリーで学んだ。
これはオタクとして培った財産として今後の人生に活かしていきたい。
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