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2019年のイベントなどメモ [memo]


1月のあP新年会 石巻旅…終了
2月ソラノヲト飲み…終了
3月アインフェリア登山部 P交流会…終了
4月ミリオン振り返り開始…終了
5月ノープラン九州旅 ツイキャス クリムト・コルビュジエ…終了
6月ISFオフ ソラノヲト飲み 京町アイプロ botオフ…終了
7月ミリオン焼肉 2周年秋葉原 原稿…終了

8月…アルトネリコオフ…終了
コミケ ポーランド
9月…合奏会
10月…脱出ゲーム 教育BBQ
11月…jail荘 ソラヲフ
12月…未定


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作曲家 助川敏弥さん 逝去 [memo]

指揮の村方師匠についで、お世話になった作曲家の助川敏弥さんも肺がんのため先日お亡くなりになりました。。今年初めに色々語り合えたのに。。
2011年に僕も振らせていただいたプロオーケストラの本番、日本人作曲家を取り上げさせていただいた。そのときに選んだのは、芥川也寸志さんの弦楽トリプティークと助川敏弥さんの子守唄(宮城県仙台地方に伝わるもの)。「またよろしくね」とステージ裏でのやりとりも忘れられない。まだ気持ちの整理ができていないが、ご冥福をお祈りいたします。。。

ニュースサイト
http://www.asahi.com/articles/ASH9Y3JD7H9YULZU001.html

リオ大統領スピーチ [memo]

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

ユトレヒト大学サマーコース時 学びexcursionフォーム [memo]

1.教育的風潮
 ●先生と子どもの関係
  ・先生はどのように子供たちに話しかけていたか
   
  ・子供たちは先生に対してどのように反応をしていたか
   
  ・クラスの雰囲気
   
  ・クラスのルール
   
  ・どのような種類の言葉によらないサインや振る舞いが見られたか
   
  ・どのように先生と子どもの関係を表現出来るか
   
 ●子供同士の関係
  ・オランダの子供たちの交流とあなたの国の子どもたちを比べると似ているか
   
  ・制服はあったか
   
  ・男子と女子の交流について
   
  ・休憩時間の子どもたちの振る舞いについて
   
  ・異なる文化背景をもつ子どもがクラスにいたか。またそれらの違いは役を果たしているか
   

2.教授法
  ・子どもたちはコースの本(テキスト)で仕事をしているか
   
  ・あなたは様々な教授法を見たか
   
  ・若い子たちの教育的シーンにおいて、どのシーンが遊びの学びを果たしているか
   
  ・子どもたちの仕事道具場所に注目するとき、彼らはどのように目を配らせていたか
   
  ・どのような教授法、ツールを先生たちは用いていたか
  

3.組織
  ・クラス内でどんな設備を目にしたか、また調度品などの配置はどうか
  
  ・子どもたちはどのように仕事をしていたか
  
  ・全体として学校組織についてあなたのアイデアや印象はどうか
   

湯沢で救助された3人も請求 スキー場コース外遭難の代償 日刊ゲンダイ 1月7日(水)9時26分配信について、浅見健太郎さんの意見 [memo]

許可を頂き、ご意見掲載。
最初は記事です。

湯沢で救助された3人も請求 スキー場コース外遭難の代償
写真はイメージ(バックカントリースキー)/(C)日刊ゲンダイ

 スキーヤー、スノーボーダーは心した方がいい。正月三が日に新潟県湯沢町「かぐらスキー場」のコース外で男女3人が遭難した事故。今回は全員無事で何よりだったが、身勝手な遭難による代償は大きいことも覚えておくことだ。

 3人は、スキー場のコースとは反対側の「バックカントリー」を滑走しているうちに遭難してしまった。「バックカントリー」とは、自然の山中を滑るスノボのスタイル。人工じゃないふわふわの雪の上を滑れると人気で、最近、同様の遭難が増えているという。

 2010年には、長野県野沢温泉村がコース外で遭難した場合、遭難者が捜索救助費用を弁償する全国初の「スキー場安全条例」を制定。以来、同様の措置を取るスキー場が全国規模で広まっているという。

「制定したのは、コース外には雪上車を出さないと入れないことが多いから。ほかにリフト稼働や救難スタッフの人件費など、スキー場側の負担が膨大になったためです。それでも、コース外の遭難事故は、年に数件から10件程度起きています」(野沢温泉村商工観光課)

 賠償額はピンキリで、スキー場関係者は「捜索にかかった時間、場所、駆け付けたスタッフの数を考慮します。総額数万円から数百万円に上るケースもあり得る」と打ち明けた。

■民間ヘリの相場は1時間100万円

 ちなみに、富山市にある「立山山麓スキー場」のHPにはコースエリア外での「捜索救助費用」として、「1時間あたり、パトロール隊員1人2万円、雪上車1台5万円」などが明記されている。

 湯沢町で遭難した3人も賠償責任を問われるようだ。

「救助のために、2日間で警察、消防など延べ9人の地上部隊と県警のヘリ1機が出動しています。今回は、地上部隊のうち、民間の山岳救助隊員1人の傷害保険加入費用と日当を負担してもらいます」(捜査事情通)

 日当は、各地域の山岳遭難防止対策協議会などによって定められている。さらに今回は、山岳部隊にスキー場関係者が2人含まれていたため、スキー場への賠償も考えられるという。

「また、公用のヘリを飛ばせるのは、夏で約1週間、冬で3、4日が限度。それ以上かかる場合は、民間のヘリを飛ばしてもらうよう伝えていますが、料金は1時間100万円からが一般的です。結果として、捜索を諦めるケースが多い」(前出の事情通)

 スキーはおとなしくコース内で楽しんだ方がいい。

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浅見健太郎さん 意見

これまた随分偉そうで、かつ見当違いの記事を書くもんだなと、感心。

と、笑っていてはいけないんだろうな。
バックカントリー=無法者みたいなイメージが世間に定着してしまいそう。
今回のような遭難や事故があった際、山岳・BCガイドの方々や研究者など知識・経験のある人が報道への異論反論も一般の人が知ることの出来るメディア上でちゃんとしないといけないんだろうなと。とは言ってもお呼びがかからなければTVにも出れない訳で。。難しい事だけど。

これから書くことはBC関係の友人・知り合い達へというよりはそれ以外の、浅見なにやっているの?危ない事やってんじゃない??という方に読んでもらえれば。。。

今回の遭難事故はTVでもネットのニュースでも記事を書く人間の限られた知識で都合よく反社会的行為の結果の遭難と云う結論に纏められているが、実際のところはちょっと違うんだろうと思う。
自分自身直接面識あるわけではないし、情報源はメディアによるものだから想像による判断もあるけど。。。

まずその前に、、今回遭難された方は見た目と職業のせいか最初から意図的にバイアスがかかっているのを強く感じる。
二日間極限の状況におかれた上でそのまま記者会見と言う、単純に追いつめる構造にしたのは何故だろうか?
公開処刑でしょ、これはと思う。
容疑者に自白を引き出すのと似た方法じゃないのかな。
捜索関係者の状況報告だけだと何かマズい事があるのかな?
すぐに反省の弁を自分の口で言わなければいけない事だろうか?
仮に自分だって生死をさまよう追い詰められた状況下におかれて、まだパニック状況でお白州に引き出されるようなことになったら何でも自分が悪い、になってしまうと思う。そのような質問のされ方するだろうし。
生け贄にされたんだろうな、そんなようにも感じる。

さて、、映像や情報を見る限り、ちょっとコースロープを潜ってスキー場の脇を滑ったということではないという事。
それは非常食やシャベルや他バックカントリー道具やエマージェンシーグッズを持っていたこと(ザックを背負っていた映像より)
沢に降りず、身体に余裕のあるうちに雪洞を掘って体力の温存を図るなど、緊急時の対応をちゃんと取れていたこと。
二日間耐えるだけの気力と判断力があるというのはそれなりに準備されていたから。
真っ当な準備と判断を出来る者として入山したものと考える。
そうでなければ谷筋に下りて力尽きて凍死していただろう。

経験は積み重ねていくものであって、また知識はみな同じレベルではないから、モチロン道具は持っていてもお粗末な人もいる。なので一概には言えないかもしれない。それでも事故が起きるまでは、夫々の経験や知識を活かして判断をし取り組んでいると思う。何かがあったと言うのは個人のキャパシティを越えたとき。
なので、勿論準備不足やミスがあった結果がこうなる訳で。
山でスキーやボードというのは日常生活ではなく、その瞬間瞬間、常にリスクを意識しながら登り滑っている。が!その判断は時に間違うこともあるし、激しい動きの有るスポーツであるだけに怪我などリカバリーの出来ない状況も発生しうる。そのための準備が非常食やシャベルなど自分の身を守る道具でそれをきちんと使えるというのは重要なこと。また雪崩講習会やトレーニングなどをして危機管理に備え、そして多くの人は山岳保険などに入って緊急時に備えている。

今回の事故の世間体的な最大のミス(揚げ足を取られる原因)は入山届けを出したとウソをついたことだろう。
ただこの点についても、法的拘束力がないこと、現実的には入山届けが生存確認と連動していない、事などから有名無実化しているという側面もある。
通常の入山届けは登山道の脇にポストみたいのがあってそこに入れる形となるためにタイムリーに誰かが確認しているものではない。
自分が直接伺った他の山域での話だが、入山届けの提出はしなくて良いから、万が一の場合は自宅などその人の動向が分かる人から連絡を貰いそこに準備してある登山計画書を出してもらう方が良いとも言われたことがある。実際、遭難の発覚は、帰宅予定の人が戻らないから探して欲しいという事がスタートだからとのこと。なのでそこに計画書があることが速やかであると。
なので入山届けが出ていない事を責めるのは大抵の場合、少し??ということ。
そういう認識が自分を含め、山に登る人の感覚に大なり小なりあると思う。

報道はこれらのことを中立的に理解し問題点の提起や事実関係を伝えるべきの所、スキー場のコース外に出た→無謀な行動をとったと言う骨組みに都合の良いような肉付けをして恣意的にニュースとしていると思う。そしてそれしか伝わらなければ、普通の人は、映像と合わせイイ歳してどんだけ非常識な馬鹿な人間なんだと理解する事になってくる。

ただ、今回のかぐらスキー場は事情が少し異なり特殊な環境にあると言える。と言うのはバックカントリー入門の場所として非常に人気があり、頂上まで歩いて数十分、多くの人が入るためスキー跡があり、それをたどれば良いと思わせ、つい安心してしまい易い環境に有る。またスキー場自体が(良い意味で)受け入れているためゲレンデ外滑走に寛容であると言えること。これ自体は非常に有り難いことであるが、リスクを意識していない人が入り易いと言う問題になっている。
今でこそ、ゲートを作ったり一定のルールが有る程度明確にあるが、やはり解らない人やノリで準備も無く山に入ってしまう人も居る。
そういうなかでの今回の遭難騒ぎ。

遭難はだれがなっても同じだと思うかもしれない、けど、本当に無謀なのと準備をした上でそうなったのは違うのではないだろうか?
そして、自分だっていつその能力の範囲を超えてしまうか、ミスをするか、安全マージンは余裕を見て取っているつもりだけど、他人事ではないなと。

長くだらだらと書きましたが
とんでも無いことやっていると思われるのは癪なので。。。。(笑)


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<訃報>ワイツゼッカー統一ドイツ初代大統領=94歳 毎日新聞 [memo]

毎日新聞 1月31日(土)20時54分配信

<訃報>ワイツゼッカー統一ドイツ初代大統領=94歳
リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー元ドイツ大統領=ベルリン市内の元大統領の事務所で2010年2月9日、小谷守彦撮影

 ◇「過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる」

 【ベルリン篠田航一】ドイツ元大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が1月31日、死去した。94歳だった。第二次世界大戦終結から40周年の1985年5月8日、連邦議会の演説で「過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる」と、歴史を直視する重要性を説き、国内外に大きな反響を呼んだ。

【ワイツゼッカー元大統領】「最近は政治家も記者もカントを読まないのが気になる」と寂しげにつぶやいた

 20年、独南部シュツットガルト生まれ。ゲッティンゲン大学などで法学や歴史学を専攻。39年9月のポーランド侵攻に従軍し、同じ連隊にいた兄を失った。

 戦後、化学会社経営、キリスト教団体幹部などを経て69年にキリスト教民主同盟の連邦議会議員に初当選。その後、81年に西ベルリン市長、84年に西独大統領。東欧諸国との和解や東西ドイツ統一に貢献し、90〜94年に統一ドイツの初代大統領を務めた。

 2009年1月、シュミット元西独首相らと共に、オバマ米大統領の「核兵器のない世界」に賛同する共同論文を独紙に執筆するなど、大統領退任後も精力的に活動した。

          ◇

 ワイツゼッカー元大統領が1985年5月8日、ドイツの終戦40年の記念日に独連邦議会で行った演説の要旨は次の通り。

 私たちは、この日に向き合う必要がある。自分たちの基準を自ら見つけなければならない。美化し一方的になるのではなく、事実をありのままに見る必要がある。この日は人々の苦難を思い出す日であり、正直に向き合うほど私たちはより解放され、その結果に責任を持つようになる。

 この日はドイツにとってお祝いの日ではない。多くのドイツ人は祖国のため戦うのをよしとした。だがそれは犯罪的な政権の非人間的な目的に寄与するものだった。この日はドイツの間違った歴史の終わりの日だ。

 この日は記憶の日でもある。記憶とはそれが自分の内部の一部となるように正直に、純粋に思い出すことだ。私たちは、独裁政権によって殺されたすべての人、特に強制収容所で殺された600万人のユダヤ人を記憶する。

 命を失ったドイツ国民や兵士、祖国を追われたドイツ人を記憶する。ロマ民族や同性愛者、宗教・政治上の理由で殺された人を記憶する。死者の苦しみや、傷つき、強制的に断種され、逃走し、空襲の夜を過ごした苦しみを記憶する。

 どの国も戦争や暴力に罪深い間違いを犯した歴史から自由になれない。罪は少数の者に主導されたが、ドイツ人一人一人はユダヤ人の苦難に共感できたはずだ。良心を曲げ、現実を見ず、沈黙していた。全国民が有罪か無罪かということではない。罪は集団的ではなく個人的なものだ。

 ドイツ人だから罪を着せられるわけではないが、先人は重い遺産を残した。私たち全員が過去に対する責任を負わされている。それは過去を乗り越えることではないし、過去は変えられない。過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる。非人間的な行いを記憶しない者は、また(非人間的な考えに)汚染される恐れがある。和解は記憶なしではあり得ないことを理解すべきだ。

 若者は当時のことに責任はない。だが歴史から生み出されるものに責任はある。私たちは過去の人間よりましなのではなく、常に危険にさらされている。だが私たちはそれを乗り越える力がある。若者に呼びかける。憎しみや敵意に陥らず、共生することを学び、自由を尊び、平和のために努力しよう。

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