FacebookとTwitter [振り返り/思考]
まず最初に、色々と教育活動を再開していこうと思います。
それにともなって私的な障壁になっている一つのものがFacebook。
とにかく情報量だけでなく熱量が高い。
ある意味では自分で作ってきたタイムラインではあるけれども、この数年で何回か戻ろうとして戻りきれなかったのはこれが一つの原因だった。
そもそもその熱量と情報量に耐えられなくなってTwitterに避難してきたようなこともある。
Twitterもまもなくフォロワー5000人を迎えるけどまだ見ていられるのは何故だろうか。
良し悪しではなく、熱量なんだと思う。
FacebookにあってTwitterにないのは身内の多さかもしれない。
Facebookは過去の活動をもとに繋がった、いわば強い人たちが多い。強い人たちが嫌なのではなく、多いのが精神的に厳しいのだと。
Facebookをしていると、常に自分がどうあるのか問われ続けられているように感じる。だからちょっとしたことで自己肯定感が一喜一憂する。それが疲れるのかもしれない。そして忙しさに呑まれて何も出来ない自分に苛立ちや焦りを感じ、結局避けてしまう。避けられるから。なくても生きてはいけるから。
少なくとも週6をベースで仕事をする自分にとって必要以上の情報や熱量には敏感になったのかもしれない。言い換えれば歳をとってヘタレたのかもしれない。
Twitterにも日々多くの情報が流れてくる。なぜ大丈夫なのか。それはFacebookの避難場所だと自己認知しており、情報は多くても軽い。この情報の重さ(熱量?)は何かと考えてみると、自身の身に近いかどうかなのではないか。
同じ情報であっても身内の多くがそれを言うのと、不特定多数の人がそれを言うのでは情報の重さが変わってくる気がする。身内というのは、直接の面識がある人や何らかの関係性を持ったことのある人のことかしら。
そういった意味ではTwitterにも身内はいる。フォロワーは多くても、その絶対量はFacebookに比べたらやはり少ない。1000人の身内と50人の身内では桁が違う。
だから今後もFacebookにはなかなか戻らないかもしれない。
しかし、活動を行っていくうえでFacebookは外せない。だからある程度セーブをしながら付き合っていく必要があるのかもしれないとこの度思った。
実験的になるかもしれないけれど、このブログを活用してリンク発信をFacebookの更新にしつつ、必要な情報やグループのみにアクセスしてやりとりをする形をやってみようと思う。
どうなるかわからない。
でも至極個人的にはタイムラインを見ないことが健全なSNS活用に繋がる気がしている。
なおこのブログリンクを貼ることでTwitterのアカウントは容易に知ることが出来る。ただ別世界の別人格の同じ人間がいるだけだ。それぞれの世界にいる私は全て私である。
徒然なるままに。