ロミオとヂュリエット観劇 [演劇]
先日よく遊びに行かせてもらっている「鮭スペアレ」という女性を中心とした劇団の横浜公演に行ってきました。また色々と言葉を飾ろうと考えているうちにダラダラと時間が経ってしまったので、公演直後にTwitterで呟いたことをまとめる感じで、力まず思ったことを書きたいと思います。
(フェイスブックページより写真を数枚拝借いたしました)
鮭スペアレとは
http://syakespeare.com/post/74144120261/about
以下Tweetより
【伝統も革新も一緒なんだな
和魂洋才 洋魂和才 それを越えるものがあった】
→シェイクスピアというと誰もが知る西洋の古典名作。それをただ西洋的に忠実に再現するというだけでなく、私たち日本人の根底にある模倣するという技を通じて、万国共通でありながら特に日本人の記憶的感性に訴える能や狂言といった表現を用い、そこに現代の私たちがもつ身体表現とオンガクを通して再現されていた。
通常こういったものは上述の和魂...洋魂...の話になりがちであるが、それを普遍的な意味で包括した素晴らしい舞台になっていた。
【言葉ではないのだ
言霊でもないのだ
音ではないのだ
音霊でもないのだ】
→どんなに努力しても言葉という概念に行き着けない、記憶の概念へと昇華していた。
【すべてが、さも元からそうであったかのようなありのままである一つの変容
空間デザインはもはや当たり前であり、そこから生まれる偶発性も当たり前だった。なんということはない、ただそこに魂、御霊と、魂、心があっただけだ。】
→京急線の架線下という立地が私たちを現実と幻想の中間地点へと誘った。
それは演出であり、そうでなく、また、演出ではないのに、そうである。
日常の息遣いの中に全てはある。
【能 狂言 歌舞伎 それもあるがままにあり、それは1でありそれは本質的には0である
観劇の感想をまだ心にヤキが遺っていると間にとその熱をば。風姿花伝、その真髄はどんなものであったか。坪内逍遙の言葉を借りるのであれば、何が真髄であるのか。】
→真髄というのは言葉に表せない。なぜならば私は作家ではないからだ。ただし、一つわかることがあるとすれば、「あの場・空間」が一つの真髄ではあっただろう。
私たちはあるがままにあるものを、どうしたっていいようにいじり倒してしまう。それが悪いということではなく、人間とはやはり度し難い存在であるのだということ。しかし、そのような存在であったとしても、意識をすることはできる。そこに演出家や演者たち、音楽家たちの想いが垣間見えるのはとても心地よいものだ。
【演者がいいのも当たり前
音楽が
空間が
言葉が
音響が
照明が
日常性が
非日常性が
産み出すとか生まれるとかそういうことではない
何かを追放した】
→これ以上のことはない、ただ「アタリマエ」「あるがまま」「自然」
私たちはどんなに心に思い描いていても、それを表現する技術を持たなくては、それで終わってしまう。
様々なことを通して成長し続ける彼らの行く末を私も追ってみたい。
【当たり前すぎてどこから言葉にしていいものか見当もつかない。新しくも古くもない。ただイマの一点なのか。】
【言葉の矛盾はあるが、多くのプロセスは所詮過程に過ぎないのだ
演劇論 身体表現論 修行法 心得 演出論 歴史 美学 確かに能の場であり、狂言の場であり、また歌舞く場であった。
音楽としての台詞と身体・言葉としての音楽、と謳っている鮭スペアレだが、それはとうにその謳に達しているだろう。
日本語を発音するという音楽的な身体や音程は非常に曖昧なものだ】
【諸行無常
移ろいゆくものと虚ろいゆくもの
時を感ずる私たち客の息づかい
時は言葉を喪う
時は雄弁に語るかとみせるがそこに流れるオトがそれをさせない
楽譜を失った西洋の楽器たち
振動を失った、否、詞との融和によって否定された音の調べ】
【私たちの感性によって有機物へと引き戻された高架下の騒音と振動 私たちは全身でイマを感じたのだ
思考する身体の具現化】
→これらは言葉の通りだ。
簡易化した形だが、私自身もこうやって書き残せたことが嬉しい。
今後も楽しみにしています。
(フェイスブックページより写真を数枚拝借いたしました)
鮭スペアレとは
http://syakespeare.com/post/74144120261/about
以下Tweetより
【伝統も革新も一緒なんだな
和魂洋才 洋魂和才 それを越えるものがあった】
→シェイクスピアというと誰もが知る西洋の古典名作。それをただ西洋的に忠実に再現するというだけでなく、私たち日本人の根底にある模倣するという技を通じて、万国共通でありながら特に日本人の記憶的感性に訴える能や狂言といった表現を用い、そこに現代の私たちがもつ身体表現とオンガクを通して再現されていた。
通常こういったものは上述の和魂...洋魂...の話になりがちであるが、それを普遍的な意味で包括した素晴らしい舞台になっていた。
【言葉ではないのだ
言霊でもないのだ
音ではないのだ
音霊でもないのだ】
→どんなに努力しても言葉という概念に行き着けない、記憶の概念へと昇華していた。
【すべてが、さも元からそうであったかのようなありのままである一つの変容
空間デザインはもはや当たり前であり、そこから生まれる偶発性も当たり前だった。なんということはない、ただそこに魂、御霊と、魂、心があっただけだ。】
→京急線の架線下という立地が私たちを現実と幻想の中間地点へと誘った。
それは演出であり、そうでなく、また、演出ではないのに、そうである。
日常の息遣いの中に全てはある。
【能 狂言 歌舞伎 それもあるがままにあり、それは1でありそれは本質的には0である
観劇の感想をまだ心にヤキが遺っていると間にとその熱をば。風姿花伝、その真髄はどんなものであったか。坪内逍遙の言葉を借りるのであれば、何が真髄であるのか。】
→真髄というのは言葉に表せない。なぜならば私は作家ではないからだ。ただし、一つわかることがあるとすれば、「あの場・空間」が一つの真髄ではあっただろう。
私たちはあるがままにあるものを、どうしたっていいようにいじり倒してしまう。それが悪いということではなく、人間とはやはり度し難い存在であるのだということ。しかし、そのような存在であったとしても、意識をすることはできる。そこに演出家や演者たち、音楽家たちの想いが垣間見えるのはとても心地よいものだ。
【演者がいいのも当たり前
音楽が
空間が
言葉が
音響が
照明が
日常性が
非日常性が
産み出すとか生まれるとかそういうことではない
何かを追放した】
→これ以上のことはない、ただ「アタリマエ」「あるがまま」「自然」
私たちはどんなに心に思い描いていても、それを表現する技術を持たなくては、それで終わってしまう。
様々なことを通して成長し続ける彼らの行く末を私も追ってみたい。
【当たり前すぎてどこから言葉にしていいものか見当もつかない。新しくも古くもない。ただイマの一点なのか。】
【言葉の矛盾はあるが、多くのプロセスは所詮過程に過ぎないのだ
演劇論 身体表現論 修行法 心得 演出論 歴史 美学 確かに能の場であり、狂言の場であり、また歌舞く場であった。
音楽としての台詞と身体・言葉としての音楽、と謳っている鮭スペアレだが、それはとうにその謳に達しているだろう。
日本語を発音するという音楽的な身体や音程は非常に曖昧なものだ】
【諸行無常
移ろいゆくものと虚ろいゆくもの
時を感ずる私たち客の息づかい
時は言葉を喪う
時は雄弁に語るかとみせるがそこに流れるオトがそれをさせない
楽譜を失った西洋の楽器たち
振動を失った、否、詞との融和によって否定された音の調べ】
【私たちの感性によって有機物へと引き戻された高架下の騒音と振動 私たちは全身でイマを感じたのだ
思考する身体の具現化】
→これらは言葉の通りだ。
簡易化した形だが、私自身もこうやって書き残せたことが嬉しい。
今後も楽しみにしています。
瑠璃色の雫 [演劇]
私にとってこの作品をもしも一言で言い表すのであれば、それは「生命の胎動」です。なんだかすぐに言葉に表すのがもったいないくらいの印象を受けました。生きるとはどういうことなのでしょうね。おそらくそれは何度も何度も考えて、気が付いたとしても生き続ける限りまた考えて、答えはないのかもしれません。だからこそ、生きる全ての人に共通の問いかけなんだと思います。正解とか失敗とか、そんなんじゃなくて。
人はいつでも意思と虚無の間に生きている。時に虚無の暗さに飲み込まれ光を失い、意思の強さに影を失う。希望と絶望の真剣なせめぎ合い・・・
こういう風に考えられるのも舞台を構成していた人たち全てがその想いを真剣に共有していたからと想像します。パフォーマンスが高いのは当たり前、でもその先は?私たちは一体何を表現するのか・・・というところを一人一人が当事者として心をこの劇に擦り寄せていっている。演者たちの表情や瞳、そしてパフォーマンスに溢れていました。
素人目ですが、まずダンスを観てここまで心を揺さぶられた経験はほとんどありません。パッション・・・彼女らの場合には蒼く静かに揺らぐ炎、「瑠璃色の魂」。今思い返してみて感じました。肉体芸術、ここまで表現できるものだとは知らず、ただただ圧倒された。
役者については言わずもがな、自分が観客であることを忘れてしまうほどリアルに存在していて、最後の最後までそれぞれが自分の背景を背負って演じ抜いたのではないでしょうか。どれひとつの役をとっても安易簡単なものがなく、全員が心の闇、葛藤、光、希望を抱き、ごちゃごちゃになりながらも前に進んでいく。
そして映像や照明がこのストーリーを現実のものにしていた。様々なこだわりを見せていましたが、特に色にこだわっていた印象。もしこれらがなかったらば、この世界観は半減して表現しきれなかった。
衣装やメイクに関しても「瑠璃色の雫」という表情を持っていた。
最後に主演の生演奏と生歌、想いの強さが凝縮されていました。音楽の原点がそこにひとつあると思います。この世界にはなぜ音楽が存在するのでしょうか。
悲しみや苦しみが一切消えたら皆さんはどう感じますか。私自身最近悲しいことがあって、向き合うとは決めたものの、やはり悲しい。でも、この劇を見て想いを巡らせ、苦しみも悲しみも、喜びも楽しさも、少しだったら全てを抱きしめることが出来るようになった気がしています。「生命の胎動」。一歩進めたのかな。ありがとう。みなさんが瑠璃色の原石をより多くの方へと届けることが出来ることをお祈りしています。
人はいつでも意思と虚無の間に生きている。時に虚無の暗さに飲み込まれ光を失い、意思の強さに影を失う。希望と絶望の真剣なせめぎ合い・・・
こういう風に考えられるのも舞台を構成していた人たち全てがその想いを真剣に共有していたからと想像します。パフォーマンスが高いのは当たり前、でもその先は?私たちは一体何を表現するのか・・・というところを一人一人が当事者として心をこの劇に擦り寄せていっている。演者たちの表情や瞳、そしてパフォーマンスに溢れていました。
素人目ですが、まずダンスを観てここまで心を揺さぶられた経験はほとんどありません。パッション・・・彼女らの場合には蒼く静かに揺らぐ炎、「瑠璃色の魂」。今思い返してみて感じました。肉体芸術、ここまで表現できるものだとは知らず、ただただ圧倒された。
役者については言わずもがな、自分が観客であることを忘れてしまうほどリアルに存在していて、最後の最後までそれぞれが自分の背景を背負って演じ抜いたのではないでしょうか。どれひとつの役をとっても安易簡単なものがなく、全員が心の闇、葛藤、光、希望を抱き、ごちゃごちゃになりながらも前に進んでいく。
そして映像や照明がこのストーリーを現実のものにしていた。様々なこだわりを見せていましたが、特に色にこだわっていた印象。もしこれらがなかったらば、この世界観は半減して表現しきれなかった。
衣装やメイクに関しても「瑠璃色の雫」という表情を持っていた。
最後に主演の生演奏と生歌、想いの強さが凝縮されていました。音楽の原点がそこにひとつあると思います。この世界にはなぜ音楽が存在するのでしょうか。
悲しみや苦しみが一切消えたら皆さんはどう感じますか。私自身最近悲しいことがあって、向き合うとは決めたものの、やはり悲しい。でも、この劇を見て想いを巡らせ、苦しみも悲しみも、喜びも楽しさも、少しだったら全てを抱きしめることが出来るようになった気がしています。「生命の胎動」。一歩進めたのかな。ありがとう。みなさんが瑠璃色の原石をより多くの方へと届けることが出来ることをお祈りしています。
観劇後【幽玄ゆらゆら音楽劇】鮭スペアレ第12回公演「かあいい日本~ごどーちゃんの居る77の風景~」 [演劇]
役者は果たして役者として自分自身を芸の中で生きることが出来るのか。そんな葛藤を真摯に受け止め、演技から表現へと昇華させる作品。
中込遊里が追い求める音楽劇では、役者はその芸の中で己としての自由を勝ち取るのではないだろうか。何者でもなく、嘘も偽りも纏わないただのワタシジシン。役者は役を与えられることによって生き死にするのではなく、役が役者を与えられることによって磨かれる。今日の公演、そのような瞬間を何度も目の当たりにした。純粋なる魂が磨かれるのだ。それはまるで能の世界。では、何がいったいそうさせるのか。それが音であり、音を伝える空気だ。
役者は音によって役から開放される。音は人間と魂を切り離す純粋且つ絶対無二の装置。台詞は生き死にを爆発的瞬間に繰り返し、とどまることがない。ゆえに、役者は常に生を追い求め、死に追いやる儀式の巫女とならねばならない。しかし、オトはどうであろう。オトが流れることーもちろん無音も含むーによって役者は常にその魂をつかみ続けることができる。恒常的であるがゆえに役と共に歩むことができる。共に歩むことによって、演者は役から開放され自己を獲得する。自己を獲得した儀式の巫女は自らの純粋なる魂で、自ら演じるものの魂の禊を行う。鎮魂をするのか、あるいは昇華させていくのか、それはその役者に委ねられると言ってもよいのではないか。
公演...というよりは、アニミズムに原点を持つ祭儀としての舞台。また、その舞台上で多くの参加者(観客)とともに共有できた本公演は、私たち日本人が心の原風景として誰もが所有する何か言葉では表せない、否、表したくない情感に満ちたものであり、時間が経つにつれてじわじわと心に暖かさと郷愁が生み出される素敵な作品であった。(写真はFacebookより拝借)
ーーーーーーーーーー
観劇後帰宅途中のTwitter これは深遠なる本質を前にした悪あがきの部分。
・イマ を こえた 考えがある
・こえる というのは正しくない
考えはいつでも共存するもの
・世界はいつでもひとつしかなく、一日しかない。その孤独は歩み寄れるものではない。
・爆発が足りない。何をするのか、という問いは虚無にでも喰われてしまえ。
・とどのつまり、音は世界であり、世界は音だ。盲いは世界を発展させるが、聾唖は世界を追放するのではないか。
・イマ とか 音 とか そんなんじゃなくて、。
・思考が愚図であるのに虚無が世界を創る。久しぶりだね、虚無くん。役者は未来を生きることが出来ない、という言葉、君ならどう感じるんだい。考えなどという君を死においやる言葉はいらない。
・今を生きることは今を死ぬこと
ちがう
そんな音ではない
世界を追放したベートーベンはどこに生きているのだ!
・ウタがヒントか。オトでもなく、イマでもなくシチジュウシチのウタなんだ。次のヒントはマイか。マイとヲドリ。世界を無へといざない、黄泉還をもたらすコエ。世界は生き、世界は死ぬ。ワタシハイキ、ワタシハシス。
・魂をひきづり降ろし、有無を言わさず磨き上げる。其れはヤクシャによって行われる正統なるギシキ。であるから、鎮魂歌ではなく人類の賛歌なのだ。それが今を生きるものの絶対的強さである。カミは祀られるのだ!人間の手によって!
・歌を謳い、舞を踊る
音を貫き、死を臨む
今は滅し、我は滅す
鬼は笑い、人は眠る
イマナニスル
中込遊里が追い求める音楽劇では、役者はその芸の中で己としての自由を勝ち取るのではないだろうか。何者でもなく、嘘も偽りも纏わないただのワタシジシン。役者は役を与えられることによって生き死にするのではなく、役が役者を与えられることによって磨かれる。今日の公演、そのような瞬間を何度も目の当たりにした。純粋なる魂が磨かれるのだ。それはまるで能の世界。では、何がいったいそうさせるのか。それが音であり、音を伝える空気だ。
役者は音によって役から開放される。音は人間と魂を切り離す純粋且つ絶対無二の装置。台詞は生き死にを爆発的瞬間に繰り返し、とどまることがない。ゆえに、役者は常に生を追い求め、死に追いやる儀式の巫女とならねばならない。しかし、オトはどうであろう。オトが流れることーもちろん無音も含むーによって役者は常にその魂をつかみ続けることができる。恒常的であるがゆえに役と共に歩むことができる。共に歩むことによって、演者は役から開放され自己を獲得する。自己を獲得した儀式の巫女は自らの純粋なる魂で、自ら演じるものの魂の禊を行う。鎮魂をするのか、あるいは昇華させていくのか、それはその役者に委ねられると言ってもよいのではないか。
公演...というよりは、アニミズムに原点を持つ祭儀としての舞台。また、その舞台上で多くの参加者(観客)とともに共有できた本公演は、私たち日本人が心の原風景として誰もが所有する何か言葉では表せない、否、表したくない情感に満ちたものであり、時間が経つにつれてじわじわと心に暖かさと郷愁が生み出される素敵な作品であった。(写真はFacebookより拝借)
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観劇後帰宅途中のTwitter これは深遠なる本質を前にした悪あがきの部分。
・イマ を こえた 考えがある
・こえる というのは正しくない
考えはいつでも共存するもの
・世界はいつでもひとつしかなく、一日しかない。その孤独は歩み寄れるものではない。
・爆発が足りない。何をするのか、という問いは虚無にでも喰われてしまえ。
・とどのつまり、音は世界であり、世界は音だ。盲いは世界を発展させるが、聾唖は世界を追放するのではないか。
・イマ とか 音 とか そんなんじゃなくて、。
・思考が愚図であるのに虚無が世界を創る。久しぶりだね、虚無くん。役者は未来を生きることが出来ない、という言葉、君ならどう感じるんだい。考えなどという君を死においやる言葉はいらない。
・今を生きることは今を死ぬこと
ちがう
そんな音ではない
世界を追放したベートーベンはどこに生きているのだ!
・ウタがヒントか。オトでもなく、イマでもなくシチジュウシチのウタなんだ。次のヒントはマイか。マイとヲドリ。世界を無へといざない、黄泉還をもたらすコエ。世界は生き、世界は死ぬ。ワタシハイキ、ワタシハシス。
・魂をひきづり降ろし、有無を言わさず磨き上げる。其れはヤクシャによって行われる正統なるギシキ。であるから、鎮魂歌ではなく人類の賛歌なのだ。それが今を生きるものの絶対的強さである。カミは祀られるのだ!人間の手によって!
・歌を謳い、舞を踊る
音を貫き、死を臨む
今は滅し、我は滅す
鬼は笑い、人は眠る
イマナニスル