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第8回イエナプラン教育 スカイプ学習会 [オランダ教育/イエナプラン教育]

赤字:ひとまずの結論・推量
青字:問い
緑字:感情・興味深い

該当ページ
第2章 P114−P119


初版と3班で学級の対象人数などが変わっていた。
時代背景から加筆や補筆が多いイメージ

日本語訳、読みにくい
読みにくさあった?

日本の学校のイメージと重ねて具体的にイメージするように読んだが、今のイエナ(オランダ)と若干違うところもあるだろう。

分かりにくさはここかな


実践者でもあるけれど、研究視点で書かれているなぁ

この視点で見るとこういう書き方になるのかな。


ペーターセンがこの本を書くことによって、教育界に何を訴えたかったのか

そういう風に思って読むとすんなり行けた。



現場レベルで考えると少し難しい気がする。

翻訳したものだから読みにくい?

何が言いたいんだ、ってなった。

文としてわからないものもあった。

学級のグループの人数など、具体的に書かれている 2章


ペーターセン自身が頭良くて、読む側に要求するものも高い

哲学の要素も含んでいる

生半可に読めない。2章は実践に基づいているから読みやすいかも

1章は哲学が源流のイメージ

1章は時代背景がないと厳しいよねとなった。

精神的なエリート性を求められている気がする

ある意味でそれを般化する形でやっていったのがオランダではないだろうか



夏にオランダへ行った時に、割と柔軟性があるなぁというイメージ。実態に応じて、工夫されていた。

オランダはそもそも実践で使えなければ意味がない、という感じがあるかも
新たに言語化していったのでは。


なんでドイツで生まれたのに、オランダのほうが有名なのか。と質問を受けた。

抑圧されつつも細々とイエナ校はあったが、ペーターセンの死後、少し廃れていった。

東ドイツで危険視されて潰されていったとの見方も。
西ドイツだったら別の可能性があったのでは。論文で見た気がする。

オランダで広まったのは法律のおかげもあるだろう。
条件が揃っていた。普及に尽力をする人もいた。憲法23条
新しい教育が発展しやすい土壌があり、今でも新教育はオランダに持ち込まれることがある。
例えば、スティーブジョブススクールも。

ドイツのイエナプランとオランダのイエナプランを比較してみたい。

異年齢が、2学年や4学年だったりするものもあった。

YouTubeではドイツのイエナプランのものがある

他にも「Jenaplan Schule」で検索すればある。


グループは6人が通例で、かなり多くの場合3.4名の集団
上級集団、中級集団、下級集団
学級規模については日本と重なってくるのかな。

授業時間に関して、実験6歳児の最長の遊び時間は96分など様々な実験が行われている。
日本の学校も場所によっては90分を一組でやっていたり、45分と5分でやっているところもある
学術的なものを背景に持つと現場に活かせるなと思った。

大学の時間も90分が一区切り。
集中力がそう。それに基づいている

実験についてはあまり書かれていない。
これについてはペーターセン本人の論文を読むしかないだろう。
玉川大学の佐久間先生とかはその辺り詳しいかもしれない。

オランダのJASの先生たちも精通している。以前の研修で歴史と理論に触れていた。


▼真の活動の自由

「活動の自由 真の活動の自由!すなわち、それは児童たちが部屋の中でも学校の中でも自由に活動することである。すべての児童がまったく自由に出入りし、集団に対して自己の自由の責任を負っているのである。活動は成長しつつある児童の体の栄養であり、それを束縛することは児童の健康に対する犯罪である。」引用

主観的に考えると、自由の中で身につけていくことが多々ある。 制約の中で自由を獲得していくという考えもあるが、ある程度身の安全や安心が保障された中で、選択できるということが個人的には嬉しい。栄養になると思う。 束縛に関しては慣れてしまっているのもあるかもしれないが、それがない状態では現状は犯罪的なのかな。

抑圧されたことに慣れた状態で、社会に出た感覚を思い出すと、先が見えずに辛かった。 その時は他に考えようがなかったからしょうがないと思っていた。 今考えれば、社会がそうなっているからと考えればそうなのしれないが。。 いい意味での自由というのは保障されていってもいいのかなと。


民主主義社会の矛盾の話と重なる

民主主義は本来自由だが、学校というシステムがあって、ある一定の価値観に縛られることによって、自由であるはずなのに自由に生きられなくなっている

他者の自由があるからではなく、システムがあるから、と捉えている

自己の自由が保障されるからこそ、他者の自由も保障される。
そんな中で社会の中で折り合っていくという考えがしっくりくる

システムはシステム

公共の福祉という感じというよりは、言葉で言うと苫野さんが言うような自由の相互承認

限定された環境でやっていくのは難しい。
教師が生徒たち同士が人間関係を作っていけるような支援をできれば、そんな中で色々なものをやっていけるのかなと。

それは言葉としてあるというのは重要だなと。

▼具体例
数週間前に小学校で、支援級の生徒が暴れて怒られている
その子はなんとなく私に懐いている
その子は自由を訴えていた
その子には他の子よりも自由を与えられていた
みんなが使うストーブを壊した
先生たちのお説教に違和感
その子も腑に落ちていない表情
みんなのお金で買った物 もっとも
しかし、腑に落ちていない
その子を自由の視点から考えると、自由を主張をしていた。
一個だけ忘れていることがあるよ
自由を保大事にされたいことはわかる、でも他のお友達の自由も大事ではないかな
今回のストーブを壊すことによって他の人の自由も大切
君の自由と同じだけ他の人の自由も大切だと思うけれど、どう思う。
以降落ち着いたとの報告を受けた

これからは色々な意味で自由が氾濫、乱用されていく時代になるだろう。
その中で自由のあり方考え方が大切。小学生でも理解できるはず。
自分が楽しくやるためにはお友達がどんな状態
自分だけ楽しければ本当にいいのかな
みんなわかっている
けど知らないとか、言葉として表せない

そういうところが課題であり、成長に必要だと思う

起こった現象だけになってしまう。
振り返らせて言語化させていくことが大事。
教育学的な視点がない。
教科教育に関しての教育学的視点はあっても、生徒指導について、現場レベルではどうなんだろう。

わかっているようで、精神論や根性論に集約されてしまう。
それがその人が体現しているのであれば別だが、そうじゃないから子供は混乱するし荒れる

大人の現場でそういう人がいたら荒れる。ふざけんなあいつとなるだろう。子供も同じ。

むしろそうやって片付けられてしまうのはなんでだろう、というところを考えていくのが大事かな


子供が納得するというのは時間がかかること。じっくり向き合っていくことが大切。
ただ、現場的に一人の子に時間をかけていられない

子供を納得させるという視点だから辛い
それを先生たちが受け持つという考えが厳しい気がする
イエナや岩瀬先生の実践では集団の力やサークル
先生たちのアプローチは教育学的な環境を整えてあげること、あとは子供達が動いていけるようにサポートやファシリテーションするのがいいのかな

先生たちは基本的に真面目な人が多いから、自分で解決しよう、ではなく、その辺りを子供達に返していくような環境づくりが必要なのかな
仕組みが必要。 そのためにはコンセプトや技術が必要

個人のレベルでできる先生がいたとしても、学校のレベルでしていかないと。
敷居を上げちゃうのではなく。
実際日本のシステムも悪くはない。先生たちが生き生きと働いていければ今のシステムでもやっていけるだろう。


質を高める。
先生たちもやりがいを持っていけるようにするには、自分たちのイエナの経験を少しずつ出していく、先生たちにも押し付けではなく、小出しにする。

教師の学びを高めていく。

学校では先生たち同士が学び合うというのはあるのか

どうしても義務的になりがち。割りあてできたものをやるか
せっかくやってきても、次の年で終わってしまう

それが日常にいきていくのか お祭り的に終わってしまうのか

均一化していくための現行のシステム。
いいものも悪いものも続いていかない

どうせやるならその中で変えていきたい。

公立の小学校でも提案されていることはある。

そうやっていくのがいいだろう。


次回は3月4日(金)朝 8:10-9:00

読む場所は、3章AのところBの前まで


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