SSブログ

高雄統子さんの事を書くにあたっての内省 [高雄統子/アイマス/デレマス]

Tweetのメモ

現在の欲求に従えばデレマスとソラノヲトか。一番は高雄さんだけれど、年末に見出した意義がリセットされた。それは外部に要因を求めた自己の内部にある必然性に基づいていなかったから。

何度も問うているが、自分が高雄統子さんのことを書きたい内的な動機とは何なのだろうか。表面的なものはいくらでも出てくるのに。或いはそういったものはなく、ただ好きなものを好きなように書きたいのか。研究なのか、発散なのか、整理なのか。その先を意識すると内的な動機がおざなりにされる。

それが単純に書くというプロジェクトで外的な要因を意識させられたものであるならば、とりあえず書き始める、という手段を取ることもできる。しかし、純粋なる己の欲求に基づいたとき、少なくとも自分の中に価値あるものとして遺していくためには内的動機と向き合わなければならないだろうな。

ただ、自分に向き合えば向き合うほど中身のないことを意識せざるを得ない。その辺りはすでに乗り越えてはいるし、挫折しそうでもココロコネクトや島村卯月が寄り添ってくれている。でも、最近は中身のない先に見出したものが自分の想いに反するものがあるという葛藤もあるのか。

その葛藤特性も客観視出来てはいる。問題はそれを乗り越えるのか、その平行線内に存在を保つのか、或いは揺らぎ続けることで受け入れて意義を見出すのか。中身がない、何者にもなれないという思いの根源はここにある。そこで見出すのがイマという心持ちなのかもしれないな。

では、そのイマという心の揺らぎポイントがどこに位置しているのかを見極めて、そのポイントに沿って考えていけばいいのか。ということは、シンプルに義務ではなく、情動に身を委ねるのが少なくとも自分にとっては答えのない自己の内発的動機に結びつくのかもしれない。

よって、己の情動そのものが高雄統子さんを書く内発的動機に与するものになる。だから思い立ったときに思ったことを自由に書き綴る。

自分探しに慣れてる自分がいるな…
イツデモ イマ ココニアル のは間違いない。

若いというのは色々許せないものだった。だから不無非未という否定こそがエネルギーに繋がる。肯定することほど陳腐に感じるものはなかったし、肯定へ変遷していく思考を恐れた。ただ、それはネガティヴな意味の許すではなく、受容することが結果的に理想に向かう舵取りであることに気がつくだけ。

お世話になったドイツ文学の教授が、大人になるというのは諦めていくことだ、と言っていたが、その意味合いそのものが歳を重ねるごとに変化してきている。今は無駄が削ぎ落とされ精錬されていくイメージ。来年はわからない。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。