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観劇後【幽玄ゆらゆら音楽劇】鮭スペアレ第12回公演「かあいい日本~ごどーちゃんの居る77の風景~」 [演劇]

 役者は果たして役者として自分自身を芸の中で生きることが出来るのか。そんな葛藤を真摯に受け止め、演技から表現へと昇華させる作品。

 中込遊里が追い求める音楽劇では、役者はその芸の中で己としての自由を勝ち取るのではないだろうか。何者でもなく、嘘も偽りも纏わないただのワタシジシン。役者は役を与えられることによって生き死にするのではなく、役が役者を与えられることによって磨かれる。今日の公演、そのような瞬間を何度も目の当たりにした。純粋なる魂が磨かれるのだ。それはまるで能の世界。では、何がいったいそうさせるのか。それが音であり、音を伝える空気だ。

 役者は音によって役から開放される。音は人間と魂を切り離す純粋且つ絶対無二の装置。台詞は生き死にを爆発的瞬間に繰り返し、とどまることがない。ゆえに、役者は常に生を追い求め、死に追いやる儀式の巫女とならねばならない。しかし、オトはどうであろう。オトが流れることーもちろん無音も含むーによって役者は常にその魂をつかみ続けることができる。恒常的であるがゆえに役と共に歩むことができる。共に歩むことによって、演者は役から開放され自己を獲得する。自己を獲得した儀式の巫女は自らの純粋なる魂で、自ら演じるものの魂の禊を行う。鎮魂をするのか、あるいは昇華させていくのか、それはその役者に委ねられると言ってもよいのではないか。

 公演...というよりは、アニミズムに原点を持つ祭儀としての舞台。また、その舞台上で多くの参加者(観客)とともに共有できた本公演は、私たち日本人が心の原風景として誰もが所有する何か言葉では表せない、否、表したくない情感に満ちたものであり、時間が経つにつれてじわじわと心に暖かさと郷愁が生み出される素敵な作品であった。(写真はFacebookより拝借)
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観劇後帰宅途中のTwitter これは深遠なる本質を前にした悪あがきの部分。

・イマ を こえた 考えがある

・こえる というのは正しくない
考えはいつでも共存するもの

・世界はいつでもひとつしかなく、一日しかない。その孤独は歩み寄れるものではない。

・爆発が足りない。何をするのか、という問いは虚無にでも喰われてしまえ。

・とどのつまり、音は世界であり、世界は音だ。盲いは世界を発展させるが、聾唖は世界を追放するのではないか。

・イマ とか 音 とか そんなんじゃなくて、。

・思考が愚図であるのに虚無が世界を創る。久しぶりだね、虚無くん。役者は未来を生きることが出来ない、という言葉、君ならどう感じるんだい。考えなどという君を死においやる言葉はいらない。

・今を生きることは今を死ぬこと
ちがう
そんな音ではない
世界を追放したベートーベンはどこに生きているのだ!

・ウタがヒントか。オトでもなく、イマでもなくシチジュウシチのウタなんだ。次のヒントはマイか。マイとヲドリ。世界を無へといざない、黄泉還をもたらすコエ。世界は生き、世界は死ぬ。ワタシハイキ、ワタシハシス。

・魂をひきづり降ろし、有無を言わさず磨き上げる。其れはヤクシャによって行われる正統なるギシキ。であるから、鎮魂歌ではなく人類の賛歌なのだ。それが今を生きるものの絶対的強さである。カミは祀られるのだ!人間の手によって!

・歌を謳い、舞を踊る
音を貫き、死を臨む
今は滅し、我は滅す
鬼は笑い、人は眠る
イマナニスル

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