SSブログ

響け!ユーフォニアムの感想2 [京都アニメーション/京マスオフ]

前掲の文章つづき

「石原、山田体制をしいたことによる京アニの本気をみたが、実際はいきすぎてしまったり、齟齬が生じてしまったのではないか」

今作は通常の監督の他に、京都アニメーションとしては珍しい、シリーズ演出という形で山田尚子を配置し、実質石原・山田の2人体制で作品づくりを牽引していくことになった。この二人について改めて論じていくことは避けるが、二人体制だとわかって個人的に安堵したことは記憶に新しい。

前回の記事にて書かせていただいたように、この作品への私の期待値はとても高く、そしてそれが故に、作品の性質が大きく偏ることに対する不安や懸念が強かったです。ホームページで公開された日、監督石原のクレジットを見たときは悲嘆にくれたものました。私個人としては彼の作品に対する嫌悪などはなく、演出家の一人としてはありだと考えています。ただその作風はある程度観る人を選んでしまう傾向があるために、吹奏楽はともかく、偏った青春感と表現、ドラマになり、今を現実に生きる若い人たちへの影響力が弱まったり、偏向するのではないかという懸念がありました。脚本も花田さんであることがそれを助長するだろうと。例えば、中二病でも恋がしたい(以下中二恋)では、コンセプトについてはともかく、2期の最終話にむかっていく過程がドラマ性に寄っていき、七宮や他メンバーの行動原理がおざなりになってしまい、言いたいセリフだけを残して去っていく形になった気がしています。それはそれでありかもしれないけれど、今回のユーフォに関して個人や特定の人物たちに帰していくにはあまりに拙いものになりうるものとなり、吹奏楽がただの猿回しになる危険性がありました。また石原さんの演出・演技方針も今回の作品に関してはその本質を崩していきかねないものでもあります。

プロデューサーの方針だったかどうかは忘れてしまいましたが、何にしても今回山田尚子さんがシリーズ演出という形で加わったことはそういった意味でも大きかったと思っています。この二人の組み合わせについては、山田さんがCLANNADで演出補佐を経て演出デビューをして以降、特にk-on!で石原さんがアドバイザーとして彼女をサポートし、たまこまーけっとで一応の独立を果たし、ユーフォで協業、聲の形で完全独立という形となっています。これは結果論でもあるとは思いますが。山田さんがユーフォに関わることによって望まれるものとして、より共感を生み出せる小さなドラマ性と表現、音響監督の鶴岡さんが「青春の巨匠」とも言うように、青春と個人やグループに当てる熱量の確保、パラジャーノフへのオマージュも感じさせる映画感から実在性へ働きかける映像などでした。

芸能と芸術の対局にある二人が今回組み合わさることによって、今までの京都アニメーションの集大成と、今後の京都アニメーションの在り方自体を問うものとなり、そこに企業側の本気を見いだすことができました。京アニプロジェクトが発信してから2015年までの一つの転換点とも言え、それらを自覚的にも引き出したのではないかと想像しています。言い換えれば、後進育成なども軌道にのり、プロジェクトのコンセプトが体現されていきつつも、そこから脱却していく演出家たちの損失による停滞的閉塞感が経営者たちによって懸念されたのかもしれません。

さて、今回二人が組むことによって先述した期待感は実際にある程度達成されました。しかし、題目にも書かせてもらったように予想以上に齟齬が発生することとなりました。個人的には全体の演出方針が8話くらいまでぶれていたように感じています。それに関してはアニメ製作上ある程度は仕方のないものではあるけれど、特に1話と2話のぶれは観る人を無意識下で大きく困惑させたのではないかとも思います。実際には3話のドラマ展開によって置き去りにされていった感もありますが。1話は完全に山田さんの世界観であるのに対して、2話は石原さんの世界観とテンポ感。通常一つの作品において、コンテや演出他が様々な人によって構成され、それらは監督やシリーズ演出家がいればその人の方針に修正されてまとまっていくのでそれ自体は問題ないのですが、今回は完全にお互いをゆずってしまい、軸を失ってしまった感があります。観ている私たちですら薄々のレベルで感じるのですから、現場レベルとしては大きな混乱を招いたのではないかとも想像されます。そのあたりはコメンタリーでも深く言及することは避けられていました。それを引きずるかのように5話くらいまで諸々が不安定だったように思われます。さらには、今回特に映像表現にもこだわったからなのか、あるいは京アニのコンセプトにもある自主性を尊重したからなのかはわかりませんが、撮影監督の暴走がはじまりました。といっても、慣れない撮影監督が個性を発揮しようと意気込んだのは良いことであるけれども、結局作品自体の方向性が煮詰まらなかったことによって、監督や演出家も判断に困り、目の前のことをみて許容を繰り返していった結果、暴走させてしまったのではないかと思います。意義をもった映像表現、あるいは抽象性を保った映像表現は観るものを自然とその世界の中へ引き込みますが、行き過ぎたものや意義を見失った映像表現(それっぽさ)は観るものに不快感、ないしは胃もたれ感を呼び起こし、積み上がるものになりづらい。コメンタリーや様々なインタビューなどで実在感を示そうという映像表現について二人は言及していますが、上記のことなどから結果的に私はユーフォの世界観や実体を失ったのではないかと考えています。

シニカルに述べるつもりはないけれど、実体と軸を模索していくうちに終わった1期はある意味で個々の演出家がそれぞれに力を大いに発揮したものでもあるかもしれません。今回の劇場版は石原さんが務めることになっていますが、そのあたりの反省や修正が展開されるのかどうかはとても興味深くあります。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0