本音についての呟きと肯定感と自我と [振り返り/思考]
自分が思ってる本音って、本音じゃないことも多いのが日本人的だよなぁと今日の仕事を通して思った。意見を持つ生き方って疲れるのよね。自分自身の意見や想いは自身が信じてないし、でも心底では信じていてそんな時に口から出てくる出てくる言葉の真正性とはどこにあるのだろう、と。
本音にもレベルや段階があって、建前上の本音があるというのが裏腹で面白い。本音だから嘘ではない。それでいても建前だから深層やその手前にある心理の持つ本音条件との乖離が生まれて苦しむ。でもそこは誰かにどころか自分自身にすら気付いてもらえない。だから苦しい。
自身の成果をアピールすることに何の価値があるのだろうとする反面、しなければ気づかれずに肯定感とともに失われゆく。それを乗り越えられる自我等があれば別だがそこまで強くはない。だから黙しても理解されることは嬉しく感じる。が、解決にはならない。だから目の前の忙しさ一つの救いにもなるのか
本音にもレベルや段階があって、建前上の本音があるというのが裏腹で面白い。本音だから嘘ではない。それでいても建前だから深層やその手前にある心理の持つ本音条件との乖離が生まれて苦しむ。でもそこは誰かにどころか自分自身にすら気付いてもらえない。だから苦しい。
自身の成果をアピールすることに何の価値があるのだろうとする反面、しなければ気づかれずに肯定感とともに失われゆく。それを乗り越えられる自我等があれば別だがそこまで強くはない。だから黙しても理解されることは嬉しく感じる。が、解決にはならない。だから目の前の忙しさ一つの救いにもなるのか
2021-01-04 10:46
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